
河村正之展のサブタイトルになっている「ものがたり」について、作者のコメントを会場内に掲示して紹介しています。この文章を読むと、河村先生の作品について理解が深まるかなと思います。
「ものがたり」ということ
私は絵を描いているとき、「絵とは何か」ということを、いつも考えているような気がします。この答の見つからぬ問いの果てに、それはいつも「何を描くのか」と「どう描くのか」の二つに分解していきます。
この二つはむろん本来無縁なものではなく、一つのことを異なる角度から眺めたにすぎないとも言えるでしょう。したがって両者は本来的に分裂することはありえず、「○○を描くために△△の方法を用いる」という幸福な一致に至るべきなのです。しかし、なかなかそうはいきません。
私は、圧倒的に美しい実際の風景や人物などを前にして、ただ呆然とそこに立ち尽くすしかないという体験を何度もしてきました。また、現実の事物・世界と全く無関係な、色や形といった造形的要素だけを用いた純粋に抽象的な絵画世界というものを、しばしば夢想します。この両者は等価です。そして共に作品化するのは困難きわまりない。この困難を生き抜くために、様々な方法を試みることになります。今回の個展のタイトルにもちいた「ものがたり」もまたそうした思考上の試みの一つです。
なぜ、ある観念なりイメージを直接的に実現しえないのか。なぜ言葉や造形的諸要素を伴うことなしには画面上にたちあらわれないのか。さらに言えば、そうした付随的に採用したはずの言葉や形象によって、結果として描かれた図像の世界性がどこか歪んでいってしまうように思われるのはなぜか。
昨年訪れたペルー、クスコの宗教美術博物館の入口に「絵は文盲のための聖書である」といった意味の文言が高々と掲げられていました。むかし、世界史だか美術史で教わった文言です。宗教美術博物館とはいえ、それが今も美術館の入り口に掲げられているのを見たとき、やはりショックを感じました。まさか今現在もそのようなものとして考えられているというわけではないでしょうが、そこに収められた16世紀以降の植民地に移入された絵画の在りようとしては、確かにそうだったのでしょう。
伝えるべき本質(この場合は聖書の内容)と、それを伝えるメディアとしての絵画。聖書自体が文字・言葉を用いたメディアであると言えますから、描かれた絵は二重のメディウム(媒材)であると言えます。伝えられるべきことは伝えられること、つまりメディアを通過することによってなにがしかの歪み/差異が発生します。
その美術館は撮影禁止ということもあって、ひたすら見ることに専念せざるをえず、同時に多くの事を考えました。そして、植民地(非ヨーロッパ)に移入された、風土や先住民の伝統的な文化とまったく無縁・異質な世界観(キリスト教)の顕現としての絵画に重ね合わせて、やはり非ヨーロッパであるところの日本における異質な文化の移入である絵画(西洋画)のことに思いが及びます。そして芸術と技術、芸術家(アーティスト)と職人(アルティザン)についても。
そうした歴史的な機能からひとまず自由になったはずの今日の絵画は、それ自体を目的とする存在となったはずです。では、絵それ自体とは、すなわち作者のことであるのでしょうか。だとすれば、言うまでもなく、作者とは自明の存在であってはならないはずです。なぜならば自明の存在とは、表現される必然性を持ちえないからです。わからないからこそ、自明でないことこそ、探られ、表現されなければならないのです。その葛藤=ダイナミズムのゆえに魅力=美が発生するのです。圧倒的に美しい事物はただ見つめ続けられるだけでよい。それを発見するのは私であるにしても、その美しさは私が不在でも存在するのです。
すなわち「語るべきものを表現する」のではなく、「探り、表現することによって語られるべきことが見出される」という逆立する思考方法としての「ものがたり」。
手探りの中でやむをえず採用される形や色といった造形的諸要素。意味をまさぐるための言葉や観念。そうしたことを通過してゆく中で伝えられるべきこと、表現されるべきことが生成されてゆき、その生成は自ずと一定のものがたり=歪み/差異を発生させます。私はその歪み/差異こそが絵であり、作者なのだと、少なくともその最も重要な部分なのだと思うのです。
2014.4.16 河村正之
posted by palettediary at 16:45|
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